6 9月 2016 - 11:09
10代目イマーム イマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)

シーア派10代目イマームであるイマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)について紹介いたします。

誕生:

シーア派10代目イマームであるイマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)はヒジラ2112年ラジャブ(太陰暦7月)2日金曜日に、メディ郊外のスリアにおいて父9代目イマームのイマーム ジャワード(AS)と母スマーナフの間に誕生した。

イマーム職に就く:

イマームはその父の同様に子供の時にイマームの地位を継承した。父の9代目イマームのイマーム ジャワード(AS)が殉教した時、イマームは6歳であった。カリフ、アル・マムーンの死後、アル・ムタシムがカリフになり、その後アル・ワーシクがカリフになった。アル・ワーシクがカリフになってからの5年間はイマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)は平和に暮らしていた。アル・ワーシクの死後、アル・ムタワッキルがカリフとしての権力座に就いたが国務に忙殺されていたため最初の4年間はイマームとイマームに従者たちに構っている時間はなく悩ませている暇はなかった。しかし国務から解放されて余裕ができるや否や、イマームを苦しめ始めた。イマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)はメディナにおいて宣教の職務に献身し、かくして人々の信頼と忠誠を獲得し、その偉大なる知識と資質が評判になるに至った。このイマームの評判は彼に対するアル・ムタワッキルの嫉妬と悪意を呼び起こした。

 

メディナの総督は“イマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)が政府に対してクーデターを企て、多数のシーアたちがイマームを支持することを誓っている”とアル・ムタワッキルに手紙を書いた。この知らせにアル・ムタワッキルは激怒したが、彼はイマームをすぐには逮捕しない外交政策を選んだ。そしてイマームを尊敬し愛情を寄せているように装いながらイマームをその宮殿に呼んで無期懲役にしようと計画した。

イラクへ:

イマームを投獄する前、イマームとの一連の交信の中で彼は、イマームの主張のすべてを認め、それを友好的に解決する用意があるという見解を表明した。彼はその手紙の中で、イマームの偉大なる人格、その比べようのない知識、その比類なき資産を熟知するに及んでイマームに拝顔の栄を得たいと述べ、イマームをサーマッラ(イラク)に丁寧に招待した。イマームはアルムタワッキルの油断のならない企てをよく知っていたが、この申し出を断った時の逃れがたい結果を予測してやむを得ずメディナを離れることを決心した。しかしイマームがサーマッラ―に到着し、アル・ムタワッキルがそれを知らされた時、彼はイマームのことなど少しも気にかけなかった。どこにイマームを泊めたら良いかと聞かれて彼はイマームを乞食、貧困者、宿無しなどのための宿泊所に入れるよう命じた。

 

アフルルバイトを徹底的に敵視するアル・ムタワッキルはイマームをその宿泊所からズラーファフという名の石のような心の持ち主で野獣のような男の監視のもとに任せた。しかしアッラーの恩恵によって、彼はイマームに対する愛情と献身に変わった。アル・ムタワッキルがこのことを知ったとき、彼はイマームをサーイドと呼ばれるほかのさらに残忍な男の監視のもとに移した。イマームは数年間その厳重な監視のもとに置かれ、その間数え切れないほどの拷問を受けた。しかしそのような悲惨な獄中の中にあってもイマームは常にアッラーの礼拝に実を捧げた。牢獄の見張り人はイマーム ハーディー(アン・ナキー)(AS)は、人間の衣服をまとった天使のように見えたと批評するのが常であった。

ファトフ イブン ハークァーンがアル・ムタワッキルの大臣になった時、彼はシーアであったのでイマームの捕虜の状態に我慢できなかった。彼はイマームを獄中から解放しようと努力し、さーまーーらーに個人的に購入した住居でイマームが快適な生活が出来るように手配した。アル・ムタワッキルはイマームに対する敵意から脱しきれなかったのでイマームとその関係者を監視するスパイたちを任命した。しかしイマームのカリフに対する反対活動を立証できる証拠は何も得られなかった。

 

アル・ムタワッキルの時代にイマーム フサインの子孫であると主張するザイナブという女性がいた。アル・ムタワッキルは、ザイナブの主張についての確認をイマームから得て言った:”獣はイマーム フサイン(AS)の子孫を食べることを禁じられているから、ザイナブを獣の中に投げ入れてザイナブの主張が正しいかどうかテストしよう“と。これを聞いてザイナブは恐ろしくなり、自分は嘘をついたと告白した。そこでアル・ムタワッキルはイマームの主張をテストするためにイマームを獣の中に投げ入れるように命じた。彼が非常に驚いたことに獣たちはイマームの前に平伏した。

 

ある時アル・ムタワッキルが非常に重い病気を患い、医者から治らないと宣告された。イマームが薬の傍らに行き処方箋を書いた。それに従って飲むと直ちに回復した。

またある時、アル・ムタワッキルはイマームが彼に反旗を翻そうとしていると知らされた。それを聞いて彼は軍隊にイマームの住居を襲撃するように命じた。兵士たちがイマームの家に入ったとき、彼等はイマームがマットの上に座ってクルアーンを唱えているのを見た。

アル・ムタワッキルだけでなくその後継者たちのイマームに対する敵意は強烈なものがあった。アル・ムタワッキルの死後、アル・ムスタンシル、アル・ムスタイーン、アル・ムタッズはイマームの家庭に対する同じような嫌がらせを続けた。

 

殉教:

アル・ムタッズはイマームに対する人々の押さえようのない熱烈な献身を知ってついにイマームを殺害することを計画した。彼は使節を遣わして2~3時間の間に死ぬ毒をイマームに飲ませた。イマームの殉教はヒジラ254年ジュマーダッ・サーニア(イスラム暦6月)26日月曜日のことであった。彼の葬儀の祈りは息子のイマーム ハサン アル・アスカリによって唱えられた。イマームの享年は42歳であった。彼のイマームとしての期間は35年であった、彼はイラクの首都バクダッドの北、サーマッラ―に葬られている。

 「イスラーム案内(シーア的観点より) 澤田沙葉 訳」より引用

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